”田部井淳子”を思う
『“田部井淳子さん”を思う』
女性登山家の田部井淳子さんが10月20日に亡くなられました。
非常に残念な思いです。
田部井さんは女性だけのメンバーを率いて、1975年35歳のときエベレスト登頂に成功した。
そして、その後も活発に世界最高峰に挑み続け、
女性で世界初の7大陸最高峰登頂を果たした。
10数年前に、弊社発行の情報誌の対談で知り合い、その後親しく交際を続け、
当社の全体ミーティングでも講演をしていただいたりしました。
その講演の一部を抜粋して紹介します。
子供時代の私は、将来アルピニストになるとは誰も想像できないほど虚弱体質で運動嫌い。
運動は何をやっても全然ダメ。
○初めての登山体験
小学校4年生の時、担任の渡辺先生の呼びかけで、那須連峰に行く。
学校の黒板や教科書で習ったものではない肌で感じたこの体験が、
忘れられないものになった・・・
那須連峰は草も木も無い。その代わりあるのは砂と岩ばかり。
川には水ではなく湯が流れていました。
それに下界はあれほど暑かったのにものすごく寒い。
なにからなにまで驚くことばかり。
学校で山に行ったときウンチをした。「いいウンチ」と先生に褒められた。
人間の命っていうのはすごい。
食べたものが血となり、肉となり、それ以外の要らないカスは排泄物として出す。
山ではどんなにつらくても誰も選手交代してくれないということも
私は小さいなりに体で感じることができた。
この時味わった喜び、驚き、自信、満足感が私の登山人生の原点。
○山に夢中になる日々
社会人となり、自分で探して山岳会に入り、仕事が終わると訓練にあけくれた。
体力と技術を向上させるため、週一回の山行きがまちきれず、
勤務が終わるとすぐに、鷹取山という昔の石切り場に通った。
そこで訓練を行い、翌日の始発電車で職場に戻る。
職場では山のことは一切出さずせっせと働き、多少の熱でも決して休まなかった。
人間何かに狂ったように夢中になる時期というのは絶対に持つべきだと思う。
自分に夢中になれるものを持っている人の方が時間の使い方はうまくなる。
○エベレスト登頂
1971年 3月にエベレスト登頂決断。
当時はネパール政府が年一回の許可しか出さなかった。
女性の登山メンバーを集める為に、新宿や上野の駅で、
リュックを背負い、ザックを持った若い人達に声をかけてみると、
「ヒマラヤですか、行ってみたいです。特にエベレストだったら、一度でいいから
見てみたいです」という答の後で、「でも」という返事に必ず出くわす。
行きたい、でもエベレストに行くには技術がないし、
体力も、お金も、暇もないという答が圧倒的だった。
ヒマラヤ登山に一番必要なものは、本当に行くぞ、という意思と、
一番困った時、自分達がどん底に陥った時、
「じゃどうすればよいか」ということを考えられる力のある人だ。
「どうすれば、行けるか どうしても行きたい」という意志
問題がある時にどうすればそれを乗り越えられるか、
前向きに考える人と、それをいつまでも人のせいにして後ろばかり振り返る人がいる。
問題が起きたとき、相手を責めても、物事は解決しない。
原因を探る→どこに原因があるのか
常に前向きに物事を考えられる人は本当にやる気がある人
○4年間のカレンダー
登頂日からさかのぼって、やるべきことを全て書き出して、月1回全体のミーティング。
徹底的に調査してリストを作って工夫に工夫を重ねた1400日の準備
○運用資金を集める
エベレスト登頂には、国家的事業で、億単位の経費が必要と言われていた時代。
何とか“企業に援助を”と二人一組で丸の内周辺を回った。
計画書を見せると
・・・「女だけで本当に行けると思っているんですか」
・・・「エッ、子供がいるの。それならそんなことするより家庭をしっかり守りなさい」
・・・「おそらく不可能でしょうね。
でもせっかくだからお見舞金という形で一万円出します」
なんて言われて、すごくみじめになったりもした。
○節約
コップは小さいものにしたり(大きいとたくさんついでしまう)
トイレットペーパーは一回40センチにしよう
お水はマヨネーズの容器で入れる。
登頂は一瞬の出来事であった。
しかし、その一瞬のために、1400日という長い間、
いろんな地域で、色んな職業を持った女の人が集まり、それをずっと準備してきた。
むしろそのことのほうが、登頂そのものよりもうんと貴重で大事なことだと私は思うのだ。
これこそ一生の忘れ得ぬ思い出となるだろう。
時がたつにつれて、これは自分の生涯の中にキラリと輝く瞬間として残るにちがいない。
これが出来たのも、単に体力とか技術だけが優れていたからではない。
本当にやろうとする意思があったからこそ、
1400日というこの長い準備に耐えられたのではないだろうか。
この意思は、お金で買うことは出来ないし、人から作ってもらえるものでもない。
本当に自分の心の中から、なにか燃え上がるような、そんなファイトが沸いて意志となるのだ。
それだけに意志は尊い。意志こそ力だ、と私は思った。
○エベレスト女性初登頂者/皆さんの協力のもとに
1975年が国際婦人年ということをも重なり、それを意識して、
女だけのエベレスト登山を計画したわけではまったくなかったが、
女性初登頂のニュースは、私たちが思ってもいなかったほど大きなものになってしまった。
15人の隊員の中で、たまたま肉体的条件が良くて登頂のメンバーに選ばれた私は
自分ひとりの力で登ったのではないことを充分に承知していた。
だから頂上に立ったものだけが脚光をあびるニュースの書き方や報道にすごく腹が立った。
あの1400日もの準備こそが大切だったということを知ってほしい、と思った。
いろんな地域でいろんな職業を持った女(ひと)たちが、
夜もビルの掃除などのアルバイトをし、学校給食に出るマーガリンやジャムの残りを集めた事、
流行のバッグや洋服を一切買わずにお金を貯めたこと、
そして600人のポーターとともに歩き、寒いテントの中で過ごした夜の積み重ねが
この登頂につながったことを私は知って欲しいと思った。
シェルパ達は、自分達はめったにない女だけのエベレスト登山隊のシェルパとして働けた、
ということを誇りに思うと言ってくれた。
上部での荷上げは一人20キロ、8000メートル以上では、
15キロと制限されていたにも関わらず、彼らはそれ以上の働きをしてくれた。
私達はお金が無い隊なので、ボーナスも出せない、というのを承知でやってくれた。
ボーナスよりも初めての女性隊で働けたことのほうが嬉しいと言ってくれたシェルパ達。
この人たちの協力がなかったら私達の成功はなかった。
1400日の準備がこの登頂につながったのだ。しかし山の報道はいつも登頂者に集中される。
○何故山に登るのか
山の魅力にひかれてというしかない。
これまでの人生、カーッとしたり、くよくよしたことは何度となくあったが、
そうした感情は、ストレートに出さず、常に心が穏やかな時に物事の判断をするよう努めてきた。
それができたのも山に行くと嫌なことを全て忘れて至福の時が過ごせるから。
田部井さんは日本女性のイメージを変え、
世界中の女性に、新しい可能性の扉を開いた功績は計り知れなく大きいし、
それ故、田部井さんの名声は、日本より海外での方が高いのである。
○田部井淳子と「怖いもの知らずの女たち」
田部井さんは2003年に各界で活躍している女性ばかりの山の会で、
“シャンソンを習ってみたい”と言った一言に会の仲間が賛同して、
「どうせやるなら、成果を披露したいわね」ということになり、
PR会社の社長、元タカラジェンヌ、元検事で弁護士、一流企業の役員の方々が、
基本メンバーとなって、“怖いもの知らずの女たち”というグループを結成し、
コンサートを企画、最初は「ちょっとどうかな(笑)」という感じでしたが、
その後、回を重ねるごとに見違えるようにお上手になり、
最近では、長崎、四万十、佐渡など全国から出演依頼があり全国各地で公演をされてきました。
そして、「日本ヒマラヤ、アドベンチャー東北支援プロジェクト」を立ち上げ、
公演や「怖いもの知らずの女たち」の本の売上を寄贈するという活動を続けてきました。
スヴェンソンでは、公演の都度出演者の方々が大変身をされるためのお手伝いをし、
ご協力させていただきました。
田部井淳子さんは、本当に多彩な才能を努力で開花され、実行に移された稀有な人でした。
心よりご冥福をお祈り申し上げます。