心機一転、できる男になれ!

2004/3/01

新入生の諸君も3/5には集合し、いよいよ本格的に新しい体制がスタートすることになる。
日本経済新聞の“何でもランキング”という紙面で昨年の暮れに
心境に合う「今年を表す四字熟語」2000人調査の発表があった。
1位は“心機一転”で4人に1人が挙げた。
出産や自宅の購入、人事異動を機に気持ちを新たにした大人達が目立ったとのこと。
心機一転とは、あることを契機にして気持ちを全く入れ替えて良い方向へ
すっかり変わることをいう。
自分で自分の気持ちを明るい方向へ変えることである。
これは、自力で行わなければならない。
ただ漠然と待っていても心機一転は起こらない。
自分を納得させ、心の整理をして、“よしやるぞ”と気力を沸かすのである。
「目標と計画を持つ者は、自分も他人も動かすが、
計画を持たぬ者は、一生他人の計画に動かされる」といわれている。
新しい体制がスタートする今月はこの上ない心機一転のキッカケであり、チャンスである。
‘92アルベールビル、’94リレハンメル・オリンピックのノルディック複合団体で
連続金メダルを獲得。ワールドカップでも個人総合三連覇を成し遂げた荻原健司氏。
「キング・オブ・スキー」と呼ばれ、世界の頂点を極めた男。
彼がある雑誌で語っていた。
初めて国際的なジュニア大会に出場した高校2年のとき、同世代のヨーロッパ選手の
目つきが違う。彼らからは、「オレは勝つぞ」という強い意気込みが感じられた。
一方、僕達はあくまでも高校の部活動の一部で、「やったあ、外国旅行だ」、
「オレは国際大会の代表選手になれた。凄いだろう」といった程度の意識。
同じ世代の人間に「練習や食事、休みの取り方など、アスリートとしての意識の差異」を
思い知らされた。
そして、成績も45人中39位という惨めなものだった。
これが僕の海外の同世代の“できるヤツ”に対する最初のカルチャーショック。
このほぼ最下位からの出発が、「彼らにどうすれば追いつき、追い越せるか」の
原動力となって、「自分はジャンプが下手。アスリートとしての意識が足りない」という
コンプレックスが他の選手に先駆けてV字ジャンプへの取組や飛躍へのバネとなった。
‘92年アルベールビルで金メダルを獲得して日本に帰ってきたら、
「荻原さん、どうして複合というマイナーな競技をしているの?」
「複合って前からあったの?」・・・というインタビューばかり。
長く複合をやってきた人間にとって、こんなに残念で悔しい質問はなかった。
「じゃあ、日本人だったら、誰でも知っているスポーツにしてやる。
一発屋で終わってたまるか。10年間トップでいることで、
皆にこの競技を分かってもらおう」・・・とこのとき自らに約束した。
‘98年の長野オリンピックで個人4位、団体5位という結果で、
大会直後から次の新しい目標が思い浮かばないという状況が続き、
引退という言葉が頭をもたげたとき、
「自分が約束した年から何年経ったのか」と数えてみたら、まだ3年足りない。
「自ら約束したことを守らずにやめてはダメだ。絶対にやめるべきではない。
人間として約束を守れないような男にだけはなりたくない」と
きっぱり引退を取り消した。
2002年のソルトレーク・オリンピック。ここに目標を定め、
自分の中の総決算として持てる力を出し切ろうと改めて決意した。
複合がマイナーだといわれて、悔しまぎれに10年間頑張ろうと思ってきたが、
それが、今日の自分の人生を決定づけるキーワードになろうとは思いもよらなかった。
ソルトレークでは、個人11位と振るわない成績だったが・・・。
今振り返ってみると、僕が自分自身に対して約束したことを守り、
それをやり遂げることができたということが、自分の人生の中で大きな自信に
つながっていると思う。
「己を知って、自分をさらに成長させたいと思っている人。
そしてその中で最大限に努力して、かつ自分に正直に生きている人」
これが僕の考える『できる男』です。
少なくともそのように心がけて僕自身生きているつもりです。
と語っていた。
我々が現役の1950年代は、日本の卓球が最強の時代で、
大新聞の一面を飾り、スポーツ面では常にトップ記事の扱いで、
殆どの国民が一度は卓球のラケットを握ったことがある・・・という時代だった。
残念乍ら、現在の日本卓球界は愛ちゃん以外はマイナー競技扱いである。
君達が大きな高い「志」をもって努力し、
一日も早い卓球ニッポン復活を果たして貰いたい・・・と心から願っている。