自らに刺激を与え、変革を求めて行こう
遊沢、全日本学生三連覇、おめでとう。
木方2位、倉島3位と1位~3位まで独占という結果で今年度最後の学生の大会を
有終の美で飾ってくれたことに心から敬意を表したい。
それにしてもキャプテンになってからの遊沢の活躍は目覚しいものがあった。
技術面では勿論のこと、人間的にも幅が出来、精神面でも見違える程成長した。
佐藤監督のリードと密着したコンビネーションも見逃すことの出来ない功績だったと
思う。
今後は大きな夢の実現に向かって世界に羽ばたいて貰いたい。
何故、卓球を始めたのか、人によっていろいろ違うと思う。
しかし、君達は今、他人に「卓球なんか止めたら?」と言われても止めないだろう
。
それは自分の興味とか意志が大きく育って来ているからだ。
そこで、もうこの辺で何故卓球をやるのか考えてみることが必要だ。
私が初めて世界選手権大会(於ユーゴ)の監督に任命されたのが1965年のこと
。
荻村伊智朗氏と共に若手コンビ誕生と言われた。荻村氏(31歳)・児玉(29歳
)
その時以来、荻村氏には国際感覚、成せば成る(やり遂げる力量)、科学的理論の
導入など、多くのことに示唆を与えられた。
そして、この時程、卓球について深く掘り下げて語り合ったことはなかった。
「我々は何の為に卓球をやるのか」についても話し合った。
「好きだからやるんだ」と言うのでは「好きなだけやる」ということで、
そこには限界がある。
これ以上やった方がいいと分かっていても、「そこまでは辛いから止めとこう」
ということになる…これでは成長に限界が出来る。
とても日本や世界の頂点を目指すことにはならない。
「先月の言葉」で書いたように、大発明家のエジソンも、
「成功は99%の努力と1%のひらめきである」と言っている。
「才能よりも努力だ」ということは、君達が自分の能力を人間能力の限界まで引き
上げて行けば、日本や世界のトップレベルに達することが出来ると言える。
スポーツは科学、学術、芸術、宗教などと同様、人間の文化活動の一つの分野であ
る。
合宿中に、ある熱烈な卓球ファンのご紹介で将棋の永世名人の称号を与えられてい
る、木村名人とお話しする機会を得た。
木村名人は、「我々プロの棋士は一手一手が明日の米に繋がる。だから一手たりと
もおろそかにすることは出来ない。」というのがお話しの骨子で、
善手・悪手の考え方など、いろいろとタメになるお話しを聞かせて頂いた。
そのミーティングの後、「我々アマチュア・スポーツマンは、学業や職場での栄進
の道を犠牲にしてまで、何の為にやっているのだろう…」と話し合った。
「好きだからやるんだ」等という限界は、とうに越えている。
精神的にも肉体的にも限界に挑戦しながら苦しい訓練を重ね、
尚且つ厳しい勝負の世界に没頭する「我々は人間の文化の向上に寄与するんだ」
という意識がなければ出来ない仕事だった。
自分が卓球選手として恵まれていると自覚したら、好きなだけやるのではもったい
ない。
親、兄弟を始め、応援して下さる方々や、大きくは社会の為に申し訳ない。
人間能力の限界を開いて行くんだという決心を固めてもらいたい。
では、どうやって限界を伸ばすか。
生理学の原則で、筋肉にも神経にも、適切な刺激を繰り返し与えていけば発達する
ことは分かっている。
適切な刺激とは何か。
刺激を刺激と思うのは自分しかいない。
その刺激に耐えるのも自分だけである。
今、自分に最も適切な刺激とは何かを一人一人が真剣に考えなければならない。
焦ってはならない…しかし、ぼんやりしているのは、それ以上に悪い。
心理面の強化‐‐肉体的な訓練‐‐戦術・作戦の対応力、決断力‐‐試合の前半で
相手の弱点を記憶する訓練等も必要。
限界を伸ばすには、いろいろな刺激が必要である。
つまり、出来ないことをやることである。
卓球を始めたとき、いろいろなことが出来なかった。
初心者のときは全部出来ないことばかりだった。
ある程度上達すると出来ないことは60%、50%になり、しまいには出来ること
ばかりやる…それでは伸びが止まる。
例えば5キロを走って15分でバテる人は、5キロを14分半でバテる訓練が必要
。
15分を楽に走るのでは、限界を伸ばすことにはならない。
「出来ないことをやれ」と言うのは、何でも出来ないことをやれと言うのではない
。
出来ると思ったことの中に、出来ないことを探してやる…これが技術の充実とな
る。
例えば、100本打って50本入るスマッシュが出来るとすれば60~70本入る
スマッシュを練習する。
その為には足腰を鍛えて動きも速くしなければならない。
このように自分の出来る技術の中に、出来ないものを探して充実させて行くことが
大切なのである。
今年は、戦後最悪の倒産件数を数え、大企業もバタバタとつぶれている。
世界的に大恐慌に突入するのではないかと言われる程、我々は今、厳しい時代を生
きている。
そういう刺激に取り巻かれながら背広を着て、或いは大学に通いながら漫画にひた
っている人が多い。
刺激とは、誰でも、どこにでも満ち満ちている。しかし、見えない者には「無」で
ある。
いろいろな刺激に適応する為に、自ら自分に変革を求めて行く…
そういう人になって貰いたいと、つくづく思うものである。
そうしない者は、背広を着て、角帽をかぶって漫画を読んでいる人と同じではない
か。
自ら変革を求めて行こう…と決心した者が、来年の明治大学を背負って行く選手
に成長するだろう。