長野オリンピック雑感

1998/3/01

先日行われた長野オリンピックで、我々は何度も感動を味わった。 やはりスポーツというものの持っている素晴らしさに全国民が酔い痴れたのではないだろうか。
スケートの清水宏保選手は数々の名言を残したが、その中の一つ、
「自分を支えてくれた人達に恵まれた金メダルです。」
普通ありきたりの言葉に聞こえるが、彼は具体的に、
「スケート靴の開発に会社の協力があった。」「試合会場の氷の状況をベストに仕上げてくれた。」
或いは、「堀井選手の存在が大きかった。」 とか、非常に冷静な言葉が出ていた。
又、自分のスタート前に転倒者が出て、担架で運ばれるアクシデントがあり、中断したりしてムードが沈みかけたが、清水選手は「自分の間合いになったと思った。」と言っている。
なんと素晴らしいプラス発想。 彼のたくましさに目を見張り、感動した。
ジャンプの原田選手は団体戦で、
「一本目は、またかと思った。 またみんなに迷惑をかけるのかと思った。 つらかった。」
しかし、それから開き直り、二本目は最長不倒距離を飛んだ。
優勝が決定して、「最高だ。 おれじゃない、みんなだよ。」
と、涙した姿も多くの人に感動を与えたと思う。
スキー、スノーボード、男子大回転で優勝したカナダのロス・レバグリアティ選手にマリファナが検出され、金メダルが剥奪されたが、スポーツ調停裁判所でその決定を覆した。
その根拠はドーピング規定の不備だというだけで、倫理面には一切触れていない。
私は、オリンピックの理想とは明らかに矛盾していると思う。 オリンピックは、全世界の人々が素晴らしい感動と興奮を味わいたい為、4年に1回行われる最も注目される大イベント。
教育上からも法律に違反した選手が金メダリストとは残念でならない。
カナダでは、「所持も吸引も法的に禁止されている。」 とのことだから、
大部分のカナダ国民は、カナダ・オリンピック委員会と本人の異議申し立てを残念に思い、恥ずかしい思いをしているのではないだろうか。
スポーツ界で最も栄誉ある賞の一つに称えられている、
“ピエール・ド・クーベルタン国際フェアプレー・トロフィー”というのがある。
この賞は、近代オリンピックの創設者、クーベルタン男爵の名にちなんで設立され、毎年、真のスポーツマン・シップを発揮した人に与えられるもの。
記念すべき第一回の受賞者は、イタリアのボブスレー選手、ユージェニオ・モンチという選手。
1964年、インスブルック・オリンピックで、モンチのチームは、最後の滑降を終え、首位に躍り出た。 彼に勝つチャンスがあるのは、イギリスのトニー・ナッシュのチームだけ。
ナッシュが最後の滑りをスタートしようとしたその時、ソリの大切なボルトが一本、外れているのを発見した。 事故を知るや否や、モンチは自分のソリからボルトを外し、ナッシュに与えた。
ナッシュはソリを修理すると、勢いよくコースを滑り降り、金メダルを獲得した。
金メダルは逃したものの、モンチの見せたフェアプレーの精神は後々まで称えられた。
清川正二さん(1932年ロサンゼルス オリンピック水泳100m背泳ぎ、金メダリスト)は著書の中で、「オリンピック・スピリットは、愛国心よりも上位に置かれなければならないと思う。」と語っている。
スポーツマンにとってはフェアプレーの精神が最も大切である。